社会は、正解のない問題だらけです。娘と夫に先立たれて精神が混乱し、老いや認知症の問題も抱える母親。その苦悩と回復の姿を撮ったドキュメンタリー映画『抱擁』の坂口香津美監督が、「リハビリ・介護を生きる 老いること、生きること」をテーマに、NHK Eテレ「ハートネットTV」で、「老いの真の幸福とは何か」について語りました。(2016年11月29日(火)午後8:00〜8:29)。
映画『抱擁』は、昨年度の文化庁映画賞を優秀賞を受賞。2年前に上映されて以来、多くの共感を呼び、現在も日本および海外の各地で上映が続いています。
カメラで撮ることが、監督と母を救った
映画は、坂口監督の母親すちえさんが苦しみ故郷鹿児島で少しずつ回復していく姿が、ナレーションのないドキュメンタリー映像で描かれたものです。周囲の人たちのやりとりも収録されており、実妹の明るく親身なケアや、息子である監督自身の戸惑いながら根気強く対応する姿も多く出てきます。
母子のシーンでは、監督が事実と異なる言いがかりをつけられたり、無理な甘えを言われたりもするシーンも。監督は、「ハートネットTV」で、母親への深い愛情とともに、喪失当時の母の苦しみを理解しきれなかった思いや、介護の現場で抱いた複雑な感情も語っていました。
追い詰められるような状態にもなった監督を救ったのが、母親をカメラで撮影をすることだったそうです。
家族を支えて昭和を生きた、強い女性
7人きょうだいの長女として生まれたすちえさんの過去の姿を、「強い人」と、監督は振り返っていました。一家で鹿児島から東京に出てきて高度成長期を過ごしたすちえさん。苦労も苦労と言っていられないような人生を、家族を愛しながら、長女として、妻として、母として送ってきたのではないかと思います。高齢になって娘や夫と死別してしまった喪失感は、とても想像しきれません。
精神安定剤を手放せない状態になり、周囲もまきこむような発作を起こして混乱した毎日を暮らす姿。そのような日々のなかでも、仏壇の娘に話しかけたり、臨終にむかう病床にいる夫をしきりに気遣い、愛し方が足りなかったと息子に悔やみ続けたりする、温かい心に満ちた人としての姿。家族のために生きた昭和時代の日本の女性のひとつの愛の形を、みるように思いました。私自身は、自分が華道を嗜むからか、映画の中の、体も不自由で気持ちも不安定なすちえさんが仏前や墓前に生ける花の扱いの手慣れた動きや、生けた形のさりげない美しさがとても心に残っています。
【映画『抱擁』について】 第27回東京国際映画祭で上映されるや、衝撃のあとに押し寄せる深い感動、ユーモアと涙が観客を包み、話題を呼んだドキュメンタリー。娘と夫を亡くし、老いの孤独と絶望、精神の混乱に陥った女性が、郷里の島の暮らしの中で、再び生きる希望を取り戻していくまでの姿を、息子である坂口監督自らが4年間カメラを向けた作品です。親が突然、介護が必要になった時、どうすれば良いのか。高齢となり夫や妻を亡くし独りになった時、その後の人生をどういきていくのか、「老後を幸せに生き抜く一つの答」を本作は提示しています 映画『抱擁』公式ホームページ:http://www.houyomovie.com/ 2016年11月26日(土)より、Vimeoオンデマンドにて配信開始。
苦しみの正体をつきとめる。「絶望」ではない
監督は、母を苦しめているものの正体をつかむ、という思いで、映画を制作したと言います。そして、「老いの真の幸福とは何か」という答えにひとつの答えを見出し、作品で示しました。
坂口監督は、番組にむけて、次のようなコメントを出しています。
2009年、娘と夫を亡くし、精神的に混乱する当時78歳の母親の介護をしながら、追い詰められるようにして手元にあったデジタルカメラを回した日から今年で7年が過ぎた。
東京から郷里の種子島へ帰還し、土地の力、人々の力、様々な力を得て再生していく母の姿は、セルフドキュメンタリーという極私的な映像の世界を越境して、2020年の超高齢化社会を迎える日本の姿を暗示し、予見する。
アナウンサー・桜井洋子さん、タレント・荒木由美子さんを交えて、映画や母についての思いを語った坂口香津美監督。
監督のコメントは、次のように続きます。
なにびとも老いの現実、近しい者の死の哀しみ苦しみから逃れられない以上、肚をくくって、自分自身と向き合う他ない。
それは決して絶望ではなく、新たな発見、予想もしない希望との出会いでもある。その幾つかの知恵が映画『抱擁』には込められている。
介護する方・される方が「共に味わう果実」
「人間の老いには豊かな果実が用意されている」と監督は言います。監督が見出した「果実」は、故郷や、親身になってくれる人たちとの暮らしにありました。
人間の老いには豊かな果実が用意されている。だが、その果実はひとりで味わうことはできない。
介護される方と介護する方がともに幸せを実感するとき、その果実はこれまで味わったことのない幸福の果実となる。
今、母は生まれ故郷の鹿児島県種子島で妹とふたりで暮らしながら、その果実をふたりで味わっています。そこにまでいたる道のりを、番組を通して実感していただけたらと思います。
この記事の冒頭の写真は、すちえさん姉妹が入浴するシーンです。
正解のない世界を生きる
『抱擁』には、ひとりの息子が撮った赤裸々な母の映像があるのみで、哀しみと苦しみと愛情に満ちた圧倒的な現実を前に、善悪も、正誤も、言い得るものがありません。監督が「追い詰められるように」カメラを取り、母を苦しめているものの正体をつきとめようという思いでたどりついたのは、人の老いのなかにある幸福の形でした。
現在、日本政府は、国をあげての教育改革のの中で「アクティブラーニング」という視点を、教育界にもちこんでいます。混沌とした社会のなかで、自ら問いを発し、正解がひとつでないなかで答えを見出し、人として人と生きていく力。それを育てるための教育です。『抱擁』は、そのようなことの意味も、感じさせるような映画だと感じました。
坂口監督が出演したNHK Eテレ「ハートネットTV」は、2016年12月6日(火)に再配送予定。映画『抱擁』は、インターネットでも見られます。
【番組情報】 番組名:ハートネットTV テーマ:「リハビリ・介護を生きる 老いること、生きること」 放送局:NHK Eテレ 放送日時:2016年11月29日(火)20:00~20:29 再放送:2016年12月6日(火)13:05~13:34 出演者:坂口 香津美さん(映画監督) 荒木 由美子さん(タレント) 桜井 洋子さん(アナウンサー) 【放送内容】 昨年、文化庁映画賞の優秀賞を受賞し、話題になった映画「抱擁」。 坂口香津美監督(61歳)は自らの母親にカメラを向けました。すちえさん(85歳)は、長女と夫を相次いで亡くし、うつや認知症を患いました。老いと孤独に向き合う姿を、息子が4年間、撮影し続けました。すちえさんは故郷の種子島に38年ぶりに帰郷し、妹と暮らしながら、徐々に生きる力を取り戻していきます。 「母を苦しめているのは、親しい者を喪った悲嘆と、老いという人間の逃れられない現実。これは母一人の問題ではなく、人が生きている限り、誰しもが抱え込まざるを得ない普遍的なテーマ。それらと格闘する母の姿を作品にし、『母を社会化すること』が使命なのでは、という思いに駆られた」といいます。「老いること、生きること、そして生き直すこと」、極私的な映像の表現から普遍化されたメッセージを坂口監督に聞きます。
〈新作のクラウドファウンディング〉
現在編集中の坂口監督の新作は、海辺のホスピスで、小児がんなど限られた命の日々を生きる子どもたちの物語を描く劇映画『海の音』。motion gallery(モーションギャラリー)にてクラウドファンディングを実施中です(2016年12月5日まで)。興味のある方は、ぜひご確認ください。
【坂口香津美監督 プロフィール】 鹿児島県種子島生まれ。早稲田大学社会科学部中退。家族や思春期の若者を主なテーマに200本以上のTVドキュメンタリー番組を企画構成演出。近作に『NNNドキュメント08 血をこえて~我が子になったきみへ』(ギャラクシー賞08年7月度月間賞受賞)、『NNNドキュメント10 かりんの家~親と暮らせない子どもたち』(日本テレビ年間賞・優秀賞)、『テレメンタリー ひとつ屋根の下で~もうひとつの学校「はじめ塾」』(テレビ朝日年間優秀賞)ほか。2015年度文化庁映画賞受賞の『抱擁』ほか、これまで6本の映画を監督し劇場公開しており、『ネムリユスリカ』以降の5作品では撮影も手がける。現在、今年春から夏にかけて撮影した次回作、自殺救助をする女性を描いた映画「曙光」、海辺の子どもホスピスで小児がんなど限りある命の日々を生きる少女たちを描いた映画「海の音」の2作品を編集中(2017年春完成予定)。著書に小説『閉ざされた劇場』(1994年、読売新聞社刊)。株式会社スーパーサウルス代表取締役。